永井 荷風  その三

 なにがしと呼ぶ婦人雑誌の編輯人しばしばわが廬に訪ひ来りて通俗なる小説を書きてたまはれと請ふこと頻なり。そもそも通俗の語たるやその意解しやすきが如くにしてまた解しがたし。僕一人の観て以て通俗となすもの世人果して然りとなすや否やいまだ知るべからざるなり。通俗の意はけだし世と共に変ずべきものなるべし。川柳都々逸は江戸時代にあつては通俗の文学なりき。しかして今日は然らず。今日もしつぶさに『末摘花』のいふ処を解釈し得ば容易に文学博士の学位を得べし。むかし女郎の無心手紙には候かしくの末に都々一なぞ書き添るもの多かりしが、今日大正の手紙には童謡とやら短歌とやら書きつけて性の悶を告ぐとか聞けり。されば今日の男女に喜ばるべき通俗小説をものせんとせば、筆を秉るに先んじてまづ今日の下情に通暁せざるべからざるなり。下情に通暁せんにはその眼光水戸黄門の如くなるにあらざれば、その経歴遠山左衛門尉に比すべきものなくんばあるべからず。

 俳諧師松風庵蘿月は今戸で常磐津の師匠をしている実の妹をば今年は盂蘭盆にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしている。しかし日盛りの暑さにはさすがに家を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水をつかった後そのまま真裸体で晩酌を傾けやっとの事膳を離れると、夏の黄昏も家々で焚く蚊遣の烟と共にいつか夜となり、盆栽を並べた窓の外の往来には簾越しに下駄の音職人の鼻唄人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸を出るのであるが、その辺の涼台から声をかけられるがまま腰を下すと、一杯機嫌の話好に、毎晩きまって埒もなく話し込んでしまうのであった。
 朝夕がいくらか涼しく楽になったかと思うと共に大変日が短くなって来た。朝顔の花が日ごとに小さくなり、西日が燃える焔のように狭い家中へ差込んで来る時分になると鳴きしきる蝉の声が一際耳立って急しく聞える。八月もいつか半過ぎてしまったのである。家の後の玉蜀黍の畠に吹き渡る風の響が夜なぞは折々雨かと誤たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩した道楽の名残とて時候の変目といえば今だに骨の節々が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になったと思うと唯わけもなく気がせわしくなる。

 ガスコンの海湾を越え葡萄牙の海岸に沿うて東南へと、やがて西班牙の岸について南にマロツクの陸地と真白なタンヂヱーの人家を望み、北には三角形なすジブラルタルの岩山を見ながら地中海に進み入る時、自分はどうかして自分の乗つて居る此の船が、何かの災難で、破れるか沈むかしてくれゝばよいと祈つた。
 さすれば自分は救助船に載せられて、北へも南へも僅か三哩ほどしかない、手に取るやうに見える向の岸に上る事が出来やう。心にもなく日本に帰る道すがら自分は今一度ヨーロツパの土を踏む事が出来やう。ヨーロツパも文明の中心からは遠つて男ははでな着物きて、夜の窓下にセレナドを弾き、女は薔薇の花を黒髪にさしあらはなる半身をマンチラに蔽ひ、夜を明して舞ひ戯るゝ遊楽の西班牙を見る事が出来るであらう。

永井 荷風  その二

 東葛飾の草深いあたりに仮住いしてから、風のたよりに時折東京の事を耳にすることもあるようになった。
 わたくしの知っていた人たちの中で兵火のために命を失ったものは大抵浅草の町中に住み公園の興行ものに関与っていた人ばかりである。
 大正十二年の震災にも焼けなかった観世音の御堂さえこの度はわけもなく灰になってしまったほどであるから、火勢の猛烈であったことは、三月九日の夜は同じでも、わたくしの家の焼けた山の手の麻布あたりとは比較にならなかったものらしい。その夜わたくしは、前々から諦めはつけていた事でもあり、随分悠然として自分の家と蔵書の焼け失せるのを見定めてから、なお夜の明け放れるまで近隣の人たちと共に話をしていたくらいで、眉も焦さず焼けど一ツせずに済んだ。言わば余裕頗る綽々としたそういう幸福な遭難者には、浅草で死んだ人たちの最期は話して聞かされても、はっきり会得することができない位である。しかし事実は事実として受取らなければならない。その夜を限りその姿形が、生残った人たちの目から消え去ったまま、一年あまりの月日が過ぎても、二度と現れて来ないとなれば、その人たちの最早やこの世にいないことだけは確だと思わなければなるまい。

 朝の中長崎についた船はその日の夕方近くに纜を解き、次の日の午後には呉淞の河口に入り、暫く蘆荻の間に潮待ちをした後、徐に上海の埠頭に着いた。父は官を辞した後商となり、その年の春頃から上海の或会社の事務を監督しておられたので、埠頭に立っていた大勢の人に迎えられ、二頭立の箱馬車に乗った。母とわたくしも同じくこの馬車に乗ったが、東京で鉄道馬車の痩せた馬ばかり見馴れた眼には、革具の立派な馬がいかにも好い形に見えた。馭者が二人、馬丁が二人、袖口と襟とを赤地にした揃いの白服に、赤い総のついた陣笠のようなものを冠っていた姿は、その頃東京では欧米の公使が威風堂々と堀端を乗り歩く馬車と同じようなので、わたくしの一家は俄にえらいものになったような心持がした。
 会社の構内にあった父の社宅は、埠頭から二、三町とは離れていないので、鞭の音をきくかと思うと、すぐさま石塀に沿うて鉄の門に入り、仏蘭西風の灰色した石造りの家の階段に駐った。

同業者の誼みにあんまり黙っていても悪いようなら議論のお相手もしよう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。川竹の憂き身をかこつ哥沢の糸より細き筆の命毛を渡世にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一人、但し人の知らない別号を珍々先生という半可通である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善悪無差別に一通りは心得ていようと努めた。その代り、そうするには何処か人知れぬ心の隠家を求めて、時々生命の洗濯をする必要を感じた。宿なしの乞食でさえも眠るにはなお橋の下を求めるではないか。

永井 荷風

 住みふるした麻布の家の二階には、どうかすると、鐘の声の聞えてくることがある。
 鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持になる。西洋の詩にいう揺籃の歌のような、心持のいい柔な響である。
 わたくしは響のわたって来る方向から推測して芝山内の鐘だときめている。
 むかし芝の鐘は切通しにあったそうであるが、今はその処には見えない。今の鐘は増上寺の境内の、どの辺から撞き出されるのか。わたくしはこれを知らない。

 大方帳場の柱に掛けてある古時計であらう。間の抜けた力のない音でボンボンと鳴り出すのを聞きつけ、友田は寐てゐる夜具の中から手を伸して枕元の懐中時計を引寄せながら、
「民子さん。あれア九時でせう。まだいゝんですか。」と抱寐した女の横顔に頤を載せた。
「あら。もうそんな時間。」と言つたが、女も男と同じやうに着るものもなく寐てゐたので、夜具の上に膝を揃へて起き直りながら、
「浴衣どこへやつたらう。これぢや廊下へも憚りへも行けませんよ。」
「かまふもんですか。廊下にや誰もゐやしません。」
「でも、あなた。話声がするわ。お客さまぢや無いか知ら。」
「われ/\と同じやうな連中でせう。」
「憚りも二階でしたわね。」
「洗面所の突当りでせう。構ふもんですか。」
「でも、これぢやアあんまりですわ。」

 船橋と野田との間を往復してゐる総武鉄道の支線電車は、米や薩摩芋の買出しをする人より外にはあまり乗るものがないので、誰言ふとなく買出電車と呼ばれてゐる。車は大抵二三輛つながれてゐるが、窓には一枚の硝子もなく出入口の戸には古板が打付けてあるばかりなので、朽廃した貨車のやうにも見られる。板張の腰掛もあたり前の身なりをしてゐては腰のかけやうもないほど壊れたり汚れたりしてゐる。一日にわづか三四回。昼の中しか運転されないので、いつも雑沓する車内の光景は曇つた暗い日など、どれが荷物で、どれが人だか見分けのつかないほど暗淡としてゐる。
 この間中、利根川の汎濫したゝめ埼玉栃木の方面のみならず、東京市川の間さへ二三日交通が途絶えてゐたので、線路の修復と共に、この買出電車の雑沓はいつもより亦一層激しくなつてゐた或日の朝も十時頃である。列車が間もなく船橋の駅へ着かうといふ二ツ三ツ手前の駅へ来かゝるころ、誰が言出したともなく船橋の駅には巡査や刑事が張込んでゐて、持ち物を調べるといふ警告が電光の如く買出し連中の間に伝へられた。